掲載日 : [2018-06-27] 照会数 : 8961
薩摩焼420年を紹介…東京で沈壽官窯展開催
[ 30点の陶器などが展示された「薩摩焼420年沈壽官窯展」(東京・新宿の韓国文化院) ]
[ 15代沈壽官さん ]
「貿易重視の藩政が朝鮮的なもの残した」15代当主がギャラリートーク
韓日国交正常化53周年記念特別展「薩摩焼420年沈壽官窯展」が7月12日まで、東京・新宿の韓国文化院で開催されている。
同展では、渡来期から現代に至る420年を沈家の初代にあたる沈当吉の「白薩摩茶碗 伝火計手」から15代当主沈壽官まで30点の陶器や、薩摩焼の系譜を紹介する史料、写真などを展示している。初日(23日)に行われたギャラリートークでは、第15代沈壽官さんが薩摩焼の歴史について語った。
薩摩焼は豊臣秀吉の朝鮮侵略の際に薩摩藩17代当主島津義弘が約80人の陶工たちを連行してきたことに始まる。
藩主島津義弘が最初、陶工たちに求めたのは白くて釉薬のかかった光沢のある焼物だったという。だが「朝鮮には真っ白な石の塊のような山があるが、そういう良質な鉱石の鉱脈が鹿児島にはなかった」。
そこで沈家の祖先たちが作ったのは、砂状の鉱石と温泉地帯でできる粘土鉱物を混ぜた白い陶器だ。「目標としたのは朝鮮白磁だったが、残念ながら磁器を作ることは叶わず白薩摩を陶器で作った」。白薩摩が完成するまでに10年の歳月を要したという。
九州各地では各藩の大名によって連行された朝鮮陶工たちが、日本で独自の進化を遂げてきた焼物だが、長州藩(毛利家)、佐賀藩(鍋島家)などが陶工たちを日本化していったのに対し、薩摩藩は朝鮮的なものを残していく。
15代沈壽官さんは推測が入ると前置きした上で「薩摩藩は朝鮮と交易をするために朝鮮陶工の存在を利用したのではないか」と指摘した。
その理由は鹿児島は桜島の噴火や台風などの天災に苦しんだことに加え、全国で最も遠方にある薩摩藩にとって参勤交代は負担が大きいために財政は火の車だったからだと話す。
「薩摩藩にしてみれば海外からお金を調達したり、貿易によって稼ぎたいという気持ちがある。朝鮮語も薩摩藩として活用していく方法で検討した。とにかく朝鮮スタイルにしておこうと、そういう意味では他の藩に見られない特異な集落が形成された」
また、イギリスの中国に対するアヘン戦争を機に、アジア進出への危機感を抱いた薩摩藩第11代藩主島津斉彬は、殖産興業の中で薩摩焼陶工に2つのことを命じた。ひとつは近代化のための反射炉の耐火レンガ作り。また、ヨーロッパへの輸出のために装飾性の高い焼物を作らせた。
華やかな絵付けを施すようになったのはこの頃から。1867年のパリ万博に薩摩藩が徳川幕府とは別に「薩摩太政府」の名で参加し、薩摩焼を出展した。「これで初めて韓国発日本経由世界という図式になった」
「一番最初にあったものは質朴な茶碗にすぎなかった。私たちに言わせると韓国は父の国であり、日本は母なる国で2つは分かちがたい存在である」と締めくくった。
(2018.06.27 民団新聞)