中国朝鮮族の故地 延辺自治州を訪ねて
移住の歴史
韓日併合後に急増…原野を穀倉地帯に開墾
どん底の草創期
延辺朝鮮族自治州は、中国内少数民族の中で最も発展したモデルと評価され、地域同胞の生活水準は東北3省の漢族を含めた他民族よりも相対的に高い。が、こうした生活・発展相はここ30年での出来事であり、それ以前はどん底の生活に喘いでいた。特に、移住草創期の苦難は筆舌に尽くしがたいものがあり、苦労の連続だったという。
民族博物館のパネルによると、最初の移住は1677年とある。ロシアが国境であった黒竜江への南侵を繰り返し、清と朝鮮王朝が共同対処する過程で発生した。
しかし、まとまった移住は1860年、韓半島の北部地方で起こった大飢饉による難民だった。当時の東北地方はまだ未開の原野で、同胞たちは試行錯誤を重ねた末に稲、とうもろこし、粟などの穀倉地帯へと変えていった。
在日同胞と重なる
「漢族は山(林業、鉱山業)、朝鮮族は水(灌漑施設整備による田畑の開墾)」という言葉は当時の状況を表したものだそうだ。移住者はまだ8万人弱だった。
移住が本格化したのはやはり1910年の韓日併合からだ。抗日義兵の生き残りや農民、労働者が移住、はやくも20万人を数えた。その10年後には50万人、満州事変が勃発した32年には67万人に達し、その後は増加の一途をたどり、解放直後には170万人とも200万人ともいわれる同胞が暮らしていた。
韓日併合後の移住者の急増は、規模が異なるとはいえ、在日同胞の歴史と通じるものがある。解放後は100万人が残っただけで、残りは帰郷した。その後、人口の自然増と6・25動乱による避難民の発生などで人口が再び増加し、最盛期には220万人にのぼった。
中国人と同等に
朝鮮族同胞に法的かつ社会的に変化がもたらされたのは、49年の中華人民共和国の成立だ。中国共産党が清朝や国民党の対朝鮮人政策を変え、法的には中国人と同等の権利を認め、土地使用権をも認定したことにより、小作人や不法滞在者の地位から脱却できたからだ。共産党はさらに52年に延辺朝鮮族自治州を設立、ここから朝鮮族の新たな歴史が始まった。
自治州設立の大功労者といわれるのが同胞の朱徳海だ。彼は毛沢東とともに共産党の将軍として長征にも加わった人物で、初代州長を務め、中国少数民族初の大学である延辺大学を設立し初代学校長となり、教育ばかりでなく政治、経済、社会事業の基礎をつくるなど、朝鮮族にとっての英雄であり、自治州の祖として今も尊敬され続けている。
20年余で急変貌
朝鮮族に法的、社会的に一大変革をもたらしたのが中共政府の樹立だとすれば、92年の韓中国交正常化は朝鮮族に画期的な変化をもたらした。それまで食堂と言えば漢族経営の小規模中華店しかなかったが、「韓食」をセールスポイントにした朝鮮族経営の韓食レストランが堰を切ったように急増し、昨年末現在で1万2000店を超え、それも400〜500席の大規模店が多い。
飲食店はまず、朝鮮族の西市場(ソウル南大門市場以上の規模。漢族のそれは東市場)を取り囲むように次々とオープンし、一大繁華街を形成するようになる。さらに韓国の直接投資による製造業や輸出入業者が押し寄せ、高層ビルが乱立するなど、わずか20数年間で街の景観は一変した。これがまた、朝鮮族同胞が曾祖父らの故郷である韓国に親近感を持つまでに認識が変化した要因ともなっている。
(2013.10.30 民団新聞)