掲載日 : [2021-02-23] 照会数 : 8342
JDもーちぃの新大久保ナビ③あふれる人の姿が 通りから消えた日
[ 緊急事態宣言下、平日の新大久保 ]
新大久保駅の2019年1日平均乗降客数は約5万人。平日、休日問わず、歩道には人が隙間なく歩いていて、駅からは止めどなく人が流れてくるので、横断歩道がパンクして車道に人が溢れているなんていう光景も珍しくない。とにかく見渡す限り人、人、人という新大久保から人がいなくなった時期があった。
私が新大久保に引っ越してきて初めて異変を感じたのは2011年の東日本大震災後。中学1年の時だ。大地震の影響でK‐POPアイドルグッズショップを運営していた人や飲食店で働いていた人々が韓国へ避難帰国してしまったのだ。人々の足が観光地から遠のいていた時期であり、人通りも減っていたが、減ったのは観光客よりお店のほうで、普段は人でごった返す大久保通りのお店がバタバタと閉まっていった。
いつもコスメショップの店先で、道行く観光客にハンドクリームを塗っていた名物アジュンマ(おばさん)も、イケメン通りを颯爽とチラシを配りながら歩いているメンズアイドルもいなくなっていた。母親と街を歩いていて「なんか暗いね…」と話したのを覚えている。
韓国のアイドルグッズショップを新大久保で運営するため、韓国から日本に家族でやってきたという小学校の同級生も「韓国では経験したことがない大きな地震だった。親族から帰ってこいと言われた」とやはり家族で韓国へ帰ってしまった。子どもは日本の中学に進学していたし、両親が運営していたショップはいつも繁盛していて新大久保のアイドルグッズショップの代表格だったが、それでも帰ってしまった。
経験したことがない大きな地震を海外の人が怖がり、このまま日本に住み続けることを不安に思うのは当然のことかもしれないが、韓国の人がいなくなった時の新大久保の力なく、げっそりした様子は衝撃的だった。
とにかく元気だったこの街のエナジーを生み出していたのは、韓国の人の力がどれだけ大きかったのかと考えさせられた。地震後は1、2年してお店が復活したり、新たなお店がオープンしたり、新大久保が元気を取り戻していった。
2013年、また異変は起こった。新大久保でヘイトスピーチや嫌韓デモが行われ、観光客が激減した。当時中学生だった私は日韓関係の悪化がこの街に及ぼす影響を知り、驚いた。ひどい言葉や、差別的な言葉の書かれたプラカードを持って行進している人たちのすぐそばで、大勢の韓国人が働き暮らしていた。本当に残酷な光景だった。
それぞれが好きな韓国を楽しむために訪れている観光客に対しても暴力的な言葉をかける人たちがいて、「今、新大久保は行ってはいけない場所」という認識が韓国好きの中でも広まったのだ。特に親世代は、若者よりも日韓関係に敏感で、新大久保から遠ざかっていったように感じた。
そして今、新大久保にはコロナ禍でも人が溢れかえっている。1度目の緊急事態宣言下ではさすがに人通りも減ったが、日韓関係が良好と言えないニュースが流れた時も変わらない光景が広がっていて、若者を中心とした人々が楽しそうに街を歩いている。
あの時、新大久保からいなくなってしまった親世代もコスメを買ったりお茶をしている。変わらないようで変わり続けている新大久保の今後の姿も見つめていきたい。
(2021.02.24 民団新聞)