国民的統一教育の裾野を
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強かったドイツの共通基盤
東独市民の勇気支える
統一を実現した東西ドイツの関係と未だ危機的な対立状態にある韓半島南北の関係―この根源的な違いはとどのつまり、東ドイツと北韓の体質的な相違から発する。
1871年に統一国民国家を樹立したドイツとは違い、わが民族は近代国家の国民あるいは市民としての生活体験を共有していない。日帝に抗する民族的な心情は強くとも、独立運動が左右に分裂したうえに、地下に潜るか海外にシフトするほかなく、統合運動体を構成することはできなかった。統一国家を追求する共通基盤は、ドイツに比べて脆弱と見なければならない。
北韓ではその脆弱な共通基盤ですら破壊された。解放から間がない45年8月25日、ソ連軍が平壌に司令部を設置すると同時に38度線を封鎖して人と物資の往来を禁じたのを号砲に、朝鮮民主党など民族・民主主義勢力を弾圧・排除し、社会主義体制を急速度で確立した。近代的な市民意識が育つ土壌が耕されるいとまさえなかったのだ。
その後も、独裁基盤を強化する過程で朴憲永ら旧〈南労党〉幹部をはじめ延安派やソ連派を次々粛清し、体制内批判勢力ですら早期に沈黙させられた。反体制派であればなおさらであろう。南方は厳戒の38度線、北方には金日成の後見人とも言うべき中・ソ両国が控えていた。現実政治の経緯や地政学上からも、反体制派の芽生える余地は乏しかった。
ドイツはビスマルクによる統一から75年以上にわたって、栄光も挫折も、そして戦争責任も共有してきた。社会主義体制下でも、かつての統一国家における生活体験や近代的な市民意識はそう簡単には廃れない。しかも東ドイツには、自分たちこそかつて統一を主導したプロイセンの血脈を引いているとのプライドがあった。
プロイセン時代からの首都ベルリンは、61年8月に壁によって遮られるまで、東西市民の交流が可能だった。スターリン死亡後の53年3月、そのベルリンのソ連管理地域で労働者デモが起き、東ドイツ各地に反ソ暴動となって広がった。ソ連軍はこれを弾圧、6000人以上を逮捕した。東ドイツ建国から3年半後のことである。
この暴動以降、青年層、知識人、熟練労働者が唯一境界の開かれていた西ベルリンを経由して西ドイツに大量に流出した。38度線以北でも反ソ暴動が頻発し、ソ連の軍事力によって過酷な弾圧を受けた。大量の流出民(越南民)を出したことも同じだ。しかし、北韓でのこの種の事態は建国以前であり、その後はまったく確認されていない。
伝統の強味も
伝統の強みも東西の鎹(かすがい)になった。商業と芸術の都ライプツィヒは、メッセの語源となった世界初の見本市都市としても知られる。メッセは社会主義体制下でも継続され、西側諸国との貴重な交流窓口になってきた。この土地柄だけに、同市のニコライ教会は82年秋から、体制改革を望む市民の祈りの場となり、有名な「月曜デモ」を積み重ねて統一への震源地となっている。
68年を頂点とした若者の大反乱を主導したSDS(社会主義ドイツ学生連盟)は、東ドイツの反体制派とも接触した。社会主義理念による革命を目指すSDSに対し、東側の活動家が求めたのは言論・集会・旅行の自由を含めた社会主義体制の民主化だった。平行したまま共通課題を見いだせない論議は、SDSの内部矛盾に転嫁され、大反乱が早期に終息した一因になったとされる。
ドイツ統一の最大の動力源は、民主化をめざす東ドイツ市民の勇気にあった。北韓の場合その勇気の表明は即、極刑を意味する。大量の脱北者や内部情報提供者の存在が証明するように、反体制意識も命がけで行動する勇気もある。だが、個人もしくは点の単位にとどまり、組織化される展望はまだない。
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空しい太陽・包容政策
ひたすら利用され…通用せぬ「接近通じた変化」
北韓には反体制派が存在しない、市民的空間がない、韓国側と接触できる普通の意味での民間人がいない。「接近を通じた変化」の基本理念は同じでも、西ドイツの東方政策と韓国の太陽・包容政策の効果が異なるのはあまりにも当然だった。
ほぼ10年にわたった太陽・包容政策は、南北間の「交流・協力」を拡大することで、現在も南北の経済的な接点となっている開城工業団地(00年8月造成合意)など、多少の歩留まりはあった。しかし、総体としては核など大量殺戮兵器の開発と体制強化に利用され、北韓の住民にではなく独裁者に温かみと光を与えただけだったとの批判を免れていない。
東方政策も同様の非難を受け続けた。東ドイツ政権の変化と人権改善への効果が極めて限定的だったのに加え、体制批判による政治犯が続出し、国境越えを試みた市民が射殺される事件も続いた。ブラントも不信任を突きつけられ絶体絶命の危機に陥っている。東方政策はそれでも、東ドイツをはじめとする東欧圏市民に勇気を与え、民主化の流れを確実に加速させることができた。
東ドイツも建国当初は、分断の責任は西側にあるとし、全ドイツの社会主義による統一を唱えていた。しかし、6・25奇襲南侵以降も韓国への大規模な軍事テロを繰り返してきた北韓のような行動をとっていない。直接的には二つの要因がある。
ソ連軍は錬度の高さがワルシャワ条約軍随一と言われた東ドイツ軍の独自行動や反乱を何よりも恐れていた。東ドイツ軍の規模を駐留ソ連軍より小さくし、自軍の指揮体系下に完全に組み込んだうえ、兵器・装備の仕様もかなり劣る水準に抑制した。これが一つ。もう一つは、韓半島とは異なり、西側に対する軍事行動や大規模なテロ行為が即、欧州全域を巻き込む大戦に発展することだ。東ドイツ軍は二重に縛られていた。
さらに重要なのは、東ドイツの対西ドイツ政策が社会主義体制の優越性を誇示する方向に集約されたこと、秘密警察・シュタージ(国家保安省の通称)を駆使しての裏工作は熾烈に展開しても両政府間の合意を反古にしなかったことだ。その背景には民主化要求が根強い市民の存在がある。
背中合わせで
東ドイツの60年代前半からの経済発展は「社会主義の優等生」と呼ばれ、電化製品が普及しテレビでは多数のCMが流されるなど、社会主義圏では異例の消費社会を出現させた。人権面でも西ドイツと競うべく、女性の社会進出、陪審員裁判制度の導入、良心的兵役拒否の合法化、死刑制度の廃止にも踏み切ってきた。
国際的信義を守ったこともその脈絡上にある。72年12月の「東西ドイツ間基本条約」締結を前後して、「西独と西ベルリン間通過協定」(71年)、「西独と西ベルリン間の東独道路利用に関する議定書」(75年)、「郵便通信協定」(76年)などが履行された効果は大きい。東西の人と物の交流が拡大する枠組みが整い、離散家族の再会、経済協力、文化交流などを進展させ、東西市民間の親和感を増進させるだけでなく、全欧州の共存と緊張緩和に貢献した。
もちろん、東ドイツ政府は実利にもこだわっていた。西ドイツとの貿易は「国内取引」扱いとされ、東ドイツはEC(欧州共同体)の一員と同じ有利な条件で貿易ができ、郵便・電話通話料、通過道路および鉄道使用料、訪問客ビザ申請費、西ベルリンの廃棄物処理費など非産業分野でも収益をあげた。
東方政策は、保守政権もこれを継承することで変化を導くことに成功したとはいえ、東ドイツ独裁政権に奉仕する危うさと「接近を通じた変化」は背中合わせだったのだ。
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約束反古が常の北韓
「改革開放」に背向け…統一戦線方式のみに固執
東側に西側への憧れを抱かせ、内部から改革を促す。しかしこの勝利政策は、市民も世論も存在せず、国際信義さえ意に介さない北韓には通用しない。相互主義は言うにおよばず、太陽・包容政策も北韓は受け入れなかった。ただひたすら利用しただけである。しかも狡猾に。
東西冷戦構造が瓦解すると北韓はソウル・平壌交互開催の南北総理会談に応じた。91年9月の南北同時国連加盟に続き、92年2月には「南北基本合意書」(南北間の和解と不可侵および交流・協力に関する合意書)と「韓半島非核化共同宣言」を発効させた。
「基本合意書」はまず、南北関係は国と国の関係ではない、統一を志向する過程で暫定的に形成されている特殊な関係と規定したうえで、双方が互いの体制を尊重し内部問題に干渉しないことを約束、平和的に共存しつつ本格的な和解を進め、政治・経済・軍事などの諸分野で協力関係を築く枠組みを定めた。
しかし、時をおかずして核開発疑惑を浮上させた北韓は93年3月、IAEA(国際原子力機関)が特別査察を決議するとこれに反発、NPT(核不拡散条約)からの脱退を宣告。「非核化宣言」は瞬時に空中分解し、「基本合意書」もむなしく宙に浮いた。
2項は不本意
それから7年後、金大中と金正日が署名した「6・15南北共同宣言」は2項で「南と北は国の統一のため、南側の連合制案と北側の低い段階の連邦制案には共通性があることを認め、今後この方向で統一を志向していくこと」を明記した。
1国家を意味する連邦制と2国家以上による連合制はまったく異なる性格をもつ。南北の武力衝突は内乱となり、第3国は容易に介入できない。朝鮮労働党の対南攪乱破壊工作の砦となる国家保安法は廃棄を、軍事バランスで不可欠な駐韓米軍は撤収か性格変更を、それぞれ強いられる。
この第2項は事前の調整もなく、金正日が金大中との直談判で強引に押し込んだ。これは、金大中自らがソウルに帰った翌日の臨時国務会議で明らかにしている。金大中は大統領就任辞(98年2月)で強調したように、「基本合意書」だけ履行されれば南北問題は成功裏に解決できることをよく知っていた。彼にとっても第2項は不本意だったに違いない。
その7年後、盧武鉉と金正日が署名した「南北関係発展と平和繁栄のための宣言」(10・4宣言)は、民族経済の均衡ある発展の原則に基づき南が北に経済支援することがメーンであり、「6・15宣言」の実践要領の域を出ていない。統一部はその後、ホームページから、北韓に促してきた「改革開放」の文言を削除し、金大中が太陽政策に込めた哲学すら放棄した。
もくろみ明瞭
「基本合意書」は、韓半島の合理的な平和装置として今なお評価が高い。北韓はその「基本合意書」や「非核化宣言」の存在には頬かむりしたまま、「6・15」と「10・4」の履行だけを執拗に迫ってきた。そこには公党を含む韓国内外の《従北》・〈親北〉勢力も総動員されてきた。もくろみは明瞭である。
合理的で実務的な「基本合意書」を履行するためには、南北が対等かつ相互主義の原則に基づいて対面しなければならない。だが、「6・15」と「10・4」は曖昧な精神論が中心で、韓国大統領が「容認」した連邦制案と「わが民族同士の理念」をテコに南北交渉の主導権を容易に奪える。
北韓の当面の狙いは、韓国の統治権力をスルーして統一戦線の網をかけ、《従北》・〈親北〉勢力を軸に国民を直接絡め取り、統治権力を操縦しつつ経済的に寄生するところにある。
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〈従北〉勢力の野欲封鎖へ
参考にすべき西独システム
「基本合意書」や「非核化宣言」を反古にして核開発を進めた北韓には、金九らによる南北協商(48年)を煙幕にして分断の責任を南側に転嫁し、平和統一に向けた南北当局間の初の合意である「7・4共同声明」(72年)の交渉の裏でも奇襲南侵用のトンネルを掘っていた前歴がある。
これらをさておいても、「6・15」や「10・4」によって韓国を縛り付けながら、大量殺戮兵器の開発に拍車をかけているのは現在進行形の事実だ。控えめな反体制派ですら生息できない北韓への太陽・包容政策は、その片鱗すら民衆に伝わらないまま独裁政権に奉仕することで終始した。だからと言って、「西側の勝利政策」をあきらめるわけにはいかない。
韓国と日本の情報当局はここ数年、中国国境地域の北韓住民に、「北韓が突然崩壊した場合、あなたはどちらに?」との設問で何回かアンケートを行ってきた。北韓に出入りする中国朝鮮族を使い、毎回1000人ほどを対象に面談調査したものだ。その概要を中央日報(10月1日付。日本語版)が報じた。
もっとも多いのが「中国側につく」(39〜48%)で、次が「自力更生する」。「韓国側につく」は3番目で、比率は17から25%の間だった。西ドイツに雪崩を打った東ドイツ市民とはまるで違う。
民意どう読む
北韓独裁の中枢に近ければ近いほど、統一後の処断を恐れて統一を阻害し、中国と連携しようとする意識が強いと言われてきた。しかし、調査対象は一般住民だ。崩壊後の管理体制とその後の統一を考える場合、中国との接触が多い地域性などを考慮しても、この数値は要注意である。
「接近を通じた変化」を試みるうえで幸い、北韓住民に韓国に対する親和意識を浸透させる手法は多様化してきた。これを大胆に活用しつつ大規模な人道的支援をためらってはならない。また、北韓当局に対しては相互主義を徹底し、対価なくして甘い汁もないことを知らしめねばならない。
効果ある対北韓政策を可能にするためには、西ドイツなみに国民的合意の裾野を拡大することだ。そうしてこそ、《従北勢力》をいっそう孤立させ、解体に追い込み、北韓の野欲を打ち砕くことができる。
東ドイツの悪名高いシュタージは89年10月末現在で、正規要員9万1015人。その指揮下の協力者は18万9000余人。分断期間中、正規要員1550余人が西ドイツで活動し、自覚がない場合も含め2〜3万人がシュタージに協力したという。その影響力の大きさは西ドイツに対して唯一、東ドイツが優越感を抱けるものだった。
有名なのは、ブラントが信頼する個人秘書がシュタージの幹部として摘発され、首相辞任に追い込まれたギヨーム事件(74年4月)だ。大反乱時の若者を一挙に過激化させたオネゾルク射殺事件(67年6月)も実は、警察官になっていたシュタージ工作員の仕業だったことが統一後明らかになった。
大反乱を主導したSDSは言うまでもなく、シュタージの要員は政府や政党・労組、言論・教育機関、さらには軍や情報機関に至るまで幅広く浸透した。ブラントのブレーンであった大学教授、SPDの事務総長まで勤めた大物政治家ら多くの協力者の存在も暴露されている。
西ドイツには、スパイ事件の摘発は緊張緩和の足かせになり、東ドイツとの関係を複雑にするとの安保不感症が広がった。政権の独裁性や人権蹂躙には沈黙し、無条件の和解と包容を主張する親東ドイツ勢力が増殖した。最近の韓国と同様の現象があった。
しかし、これが色濃く定着することはなかった。西ドイツは52年、連邦政治教育センターを設立、ナチスと共産主義の封鎖を重点とする「戦闘的民主主義」のための教育を徹底してきた成果だ。05年9月に韓国を訪問した同センター幹部は「政治教育がドイツの民主化と統一の原動力になった」と語っている。
虚構流布続く
学生・公務員・軍人・市民を対象にした政治教育の均衡性は、60年代後半の大反乱で反ナチズムの不徹底と過度な反共主義に対する批判を経ていっそう確立され、極左テロ組織やナチスのような極右民族主義を健全な市民の力で抑止し、社会葛藤を討論と妥協で解決する成熟した市民文化の形成に貢献した。東ドイツ市民に対する人権保障の要求が西ドイツ市民の義務であると教育したのも特筆すべきだろう。
ドイツはシュタージ文書管理庁を91年に、社会主義統一党独裁清算財団を98年に設立。政治的被害者や東ドイツと関連する学術活動を支援するほか、独裁を直接体験していない若い世代が社会主義を美化することを防ぐ教育も継続している。
韓国では《従北》・〈親北〉的な言動をほしいままにする公党・市民団体・言論機関が大手を振っている。〈全教祖〉教師による現場教育や検定教科書で、韓国は反統一勢力の〈悪の国〉、北韓は統一勢力の〈善の国〉という虚構の流布も続いている。このような事態を放置して、統一へのまともなエネルギーや政策が生まれるはずがない。
西ドイツの政治教育システムは、対北韓政策が大統領によって大きく振れ、国論分裂が当たり前になっているだけでなく、各分野の葛藤が極端な対立に発展しやすい韓国においてこそ必須だ。これから本格化する韓半島の地殻変動を前に、「戦闘的民主主義」に学ぶところは多い。
(文中・敬称略)
(おわり)
(2012.10.24 民団新聞)