民団が明大と共催
植民地時代の恩讐を超えてスポーツを通した平和な社会の実現と国際相互理解に尽力してきた1936年ベルリンオリンピック男子マラソンの金メダリスト、故孫基禎選手の生誕100周年シンポジウムが9日、母校の明治大学で開かれた。約500人が出席して故人の思想と人生を振り返った。同シンポジウム実行委員会主催、明治大学と民団中央本部が共催した。
第1部記念式典で基調報告に立った実行委員長の寺島善一明治大学商学部教授は、孫基禎選手が身をもって実践したスポーツを通じた東アジアの国際理解、友好連帯の精神を強調し、「ここにこそオリンピック憲章の真髄がある。ロンドンオリンピックが開催される今年、孫選手の辛い過去から学び、未来へ向かって日韓友好を深める機会としたい」とシンポ開催の狙いを説明した。
孫選手とゆかりの深い関係者は、「思い出」とともに孫選手の知られざる一面を語った。
前中日球団代表で東京新聞の運動部長を歴任した伊藤修さんは、マラソン男子日本代表の中山竹通選手が、ソウルオリンピックで3位から4位に落ちたときに孫選手が怒ったという話を紹介した。これは解放後、過去の恩讐を超えて日本人スポーツマンとの友情を大事にしてきた孫選手らしいエピソード。
長距離ランナーだった祖父・梁任得さんが孫選手と親交があった芥川賞作家の柳美里さん。孫選手とはソウルで3回にわたって会った。柳さんは作家として行き詰まったとき、何回も励まされたという。
第2部のパネルデイスカッションには、評論家の谷口源太郎さんと元プロ野球選手の広澤克実さんも加わった。
谷口さんは、メダルが国威発揚のための道具となっている現状に異議を唱えながら、「日本のスポーツ界はいまこそ、オリンピック本来の国際協調主義に戻るべきだ。孫さんの言動をもういちどかみしめてみたい」と訴えた。柳さんも、「いつのころからか、ナショナリズムを前面に出して争うスポーツは見なくなった。どの国を応援したらいいのか、考えると息苦しいから」と胸のうちを明かした。
広澤さんは、「孫さんはオリンピックで金メダルを取ったあとも、すばらしい活動をしている。その生き方には感銘を覚えた」と称え、「遺産から学ぶことは多い」とシンポを締めくくった。最後に長男の孫正寅さん(民団横浜支部事務部長)がお礼の言葉を述べた。
冒頭、民団中央本部を代表して呉公太団長が、「孫選手が訴えてきた平和の願いと、多文化共生のメッセージを継承していこう」と呼びかけた。韓日親善協会の金守漢会長からは「シンポが在日の韓民族としての自負心を高めることを期待する」との祝電が届いた。
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孫基禎選手 プロフィール
スポーツ通じた平和な世界願う
1936年のベルリンオリンピックに「日本代表」として当時のオリンピック新記録である2時間29分19秒2で優勝した。表彰台ではメーンポールに翻る日章旗に、「なぜ、君が代が自分にとっての国歌なのか。同胞のために走ったのに」と、耐えがたい屈辱をこらえながら涙をかみしめた。
朝鮮総督府からは独立運動の引き金になる危険人物とみなされ、官憲から厳しい監視と束縛を受けた。1937年に明治大学に入学するが、走ることは禁じられた。晩年、孫さんは「箱根駅伝を走りたかった」と子息の正寅さんに語ったという。
解放後は大韓体育会副会長、韓国陸上連盟会長、韓国オリンピック委員会常任委員、ソウルオリンピック組織委員などを歴任するなど、韓国の陸上・マラソン強化のために努力した。教え子の徐潤福が47年、ボストンマラソンで孫の世界記録を12年ぶりに更新する2時間25分39秒で優勝。50年のボストンマラソンでも、弟子の韓国選手が上位1・2・3着を独占した。
88年ソウルオリンピック開会式では最終聖火ランナーの1人を務めた。
1912年平安北道新義州生まれ。小学生の時から「走る」ことに喜びを見いだした。貧苦から勉学を一時中断して16歳のとき、長野県諏訪地方で丁稚奉公したが、このときも走りつづけた。02年11月15日、ソウル市内の病院で死去。90歳。
(2012.6.13 民団新聞)