<主体思想派> 運動圏に深く浸透
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虚構と、こじつけと
南=「植民地」 北=「民主基地」
「階級」と「民族」
1980年代に入って台頭した新世代左翼は、短い未分化の時期を経て「民衆・民主」を意味する《PD派》と「民族・解放」の《NL派》へと分裂していく。ただ、「分裂」とは言っても、おおっぴらな糾弾や暴力をともなう激しい抗争があったわけではない。
最大のキーワードは「階級」と「民族」である。大きな民族的課題がある国や地域の左派系ではよくある現象だ。両派は当初、次のような特徴をもっていた。
まず《PD派》。韓国の体制的な性格を「新植民地・国家独占資本主義」と規定した。韓国資本は米国資本への隷属性と自立性を併せもっており、韓国における基本的な矛盾は労働者と資本家の階級対立にあるとの認識から、反米や南北統一より、労働者階級を主体にした民衆民主主義革命による社会主義体制の実現をめざした。
モデルをロシア革命に求め、正統マルクス・レーニン主義に近いとされる。北韓とは一貫して距離を置き、むしろ遠ざけようとする傾向も見受けられた。80年の光州事態に現れた「北韓は誤判するな」とのスローガンは、その一端を示す。
これは、光州市民が北韓と連動する可能性、あるいは北韓が事態に介入する余地を排除しようとする防衛的な観点だけでなかった。北韓はもはや正統社会主義から逸脱しているとの認識を反映していたとされる。
反体制の知識人や学生はマルクス、レーニン、毛沢東、従属理論などから社会主義に接近した。したがって、80年代初の運動圏で《PD派》が一般的な存在だったのは当然の成り行きだった。《NL派》の登場で様相が変わるのは中盤からである。
《NL派》は、韓国は「米国の植民地」であると強調し、主要矛盾は韓国民衆と米国を中心とする帝国主義、およびその隷属勢力との対立にあるとした。民衆を主体に帝国主義およびその隷属勢力を駆逐し、民主政権を樹立する民族解放・民衆民主主義革命を唱えた。
朝鮮労働党が結党時から党規約で明示してきた対南路線と極めて近い。主体思想をあがめる《主思派》が水であるとすれば、《NL派》はスポンジのような存在であったと言えよう。《NL派》の内部で《主思派》が力を伸ばすうえで、次のような論理が共有されていったという。
第一に、韓国は米帝国主義が支配する植民地である。第二に、資本主義経済が発展したとはいえ、民族分断を固定化させ、自立的民族経済の基本を破壊した。第三、韓国革命のためには全民族的な観点に立たねばならず、帝国主義の支配から脱した民主基地である北韓の力量を適切に考慮する必要がある。第四、韓国革命は6・25韓国戦争を前後した革命運動の伝統のうえにある。そして第五、北韓社会主義の建設過程において哲学的な基礎となった主体思想を韓国革命の指導的思想に定めねばならない。
独自性を否定
虚構とこじつけから成り立っている。しかしそこには、指導理念として主体思想を受け入れ、受け入れることを合理化する以外に、組織論や運動論の側面でも重要な意味合いを含んでいる。これについては、問題ごとにそのつど詳述することにする。
とりあえず指摘しておくとすれば、《主思派》が韓国独自の前衛党の必要性を否定的にとらえていた事実だろう。なぜなら、彼らにとって《前衛党》はすでに存在するからだ。朝鮮労働党は韓半島で唯一の革命指導政党であり、南における運動体に独自性は必要なく、朝鮮労働党が主導する統一戦線の一部を構成すべきだと自覚していたと見なければならない。
事実、《PD派》からは「北韓は我われを統一戦線の対象と見なすだけだ。騙されるな」との警告が再三なされていた(関連部分、後述)。
北に憧れるから南を否定するのか。南を否定したいから北を敬うのか。
当時は北韓の実情を知らせる情報がほとんどなく、運動圏では当然ながら、体制側が伝える情報を真逆に聞き取る傾向があった。したがって、主として後者の心理の働きが強かったはずだ。
いずれにせよ、現実から理念を確立するのではなく、理念が現実を規定するいびつな硬直性を見ないわけにはいかない。
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386世代の言い分
過激さを競い合った…「分断語らぬ」M・L主義否定
主体思想を抵抗なく受け入れたとされる386世代(90年代に30代となり、80年代に学生運動を行った60年代生まれ)でも、主体思想を研究したうえで、絶交した者も少なくない。朝鮮日報の企画取材部長・李翰雨もそのひとりだ。彼はコラム(5月31日付)でこう書いた。
「たわごとだ」
「個人的には主体思想に関心がなかったわけではなかった。そのため、大学内の研究所で合法的に共産主義諸国の資料を閲覧できる資格を取得し、主体思想について学び始めた。ちょうどその年、北韓で『偉大な主体思想双書』が発行された。1週間ほどかけて、10巻からなるこのシリーズを読破して得た結論は、『たわごと』だった。(中略)ただ、哲学や歴史に無知な状態で読めば、のめり込む可能性も決してなくはなかった。実際にそうなった人にたくさん会い、討論もしたが、彼らは決して考えを変えようとはしなかった」
386世代のほとんどが現在、40代の働き盛りとして各界各層で重きをなす立場にある。そのかなりの部分が《NL派》時代の精神を、左派的な情緒として今も引きずっているとされる。
だが、《主思派》の始祖である金永煥(49・「北韓民主化ネットワーク」研究員)や河泰慶(45・セヌリ党国会議員)ら著名人だけでなく、少なくない386世代が自省の思いから、主体思想に心酔した理由について、率直に語ってきた。
『進歩の影‐南韓の地下革命組織と北韓』(韓基弘著。時代精神社、2012年刊)はこの辺の事情に詳しい。
著者の韓基弘(51)は、81年に延世大学に入学後、学生運動に没頭したのはもちろん、経歴を偽って現場の労働運動オルグを13年間にわたって続けてきた。1年6月の実刑判決を受け、6カ月服役した経験もある。
その後、金永煥らと同じく政治的立場を転換させ、『時代精神』誌発行人、「デーリーNK」発行人を経て「北韓民主化ネットワーク」の代表を務める。北韓民主化運動の先鋒に立つ、旧運動圏出身の中心人物のひとりである。
386世代の当時の心情を『進歩の影』から抽出しておこう。より過激であることが熱誠運動家の証明となり、イニシアチブを握っていく時代であったことをまず確認したい。そのうえで、そうした自己顕示だけでは片付けることのできない、論争によっても譲れなかった、彼らなりの言い分を聞こう。
《PD》は偽善
どっちみち社会主義をしようとするなら、現実に社会主義を具現した北韓を無視するのは問題だ。80年代初までの指導思想であったマルクス・レーニン主義は、複雑で難しいとの印象があり、しかも韓半島の現実を説明するには限界があった。分断国家に対して関心のないマルクス・レーニン主義よりは、民族問題と統一に言及するNL理論がより魅力的だった。
《主思派》は北韓を革命の友軍と見なし、積極的に連帯すべきだと主張した。《PD派》は「北韓は我われを統一戦線の対象と見なすだけだ。騙されるな」と警告した。しかし、マルクス・レーニン主義者が北韓を遠ざけようとする心理はむしろ偽善に思えた。
不条理は看過
当時、「朝鮮日報」が南北の大学生比率は11対7であるとか、国連が84年に発表した1人当たり国民所得の統計に、南が2030㌦、北が2010㌦とあった。南で言うほど北との格差はないことから、北韓の体制宣伝をより信頼するようになった。
金日成のパルチザン闘争、越北作家たちの作品に接したとき、反共宣伝に騙された、との背信感が北への信頼に発展した。もちろん、金日成が韓国戦争を起こし、無慈悲な粛清をして息子に政権を譲り渡すとか、越北作家の大多数が悲惨な結末を迎えた事実を知らなかったわけでなかったが、故意に忘れるか合理化した。
学生たちに主体思想は魅力的に感じられた。寄せ集めのでっち上げ理論であることを知る人は少ない。主体哲学の原理である「人がすべての主人だ」という人間中心主義に共感した。独創的な思想であることに自負心さえもち、マルクス・レーニン主義に追従する《PD派》を「思想的事大主義者」とさえ非難した。
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抑制された左翼内部の対立
公開批判は背信行為…「従属勢力」の伸長を許す
「新左翼」とは、「イギリスで旧左翼に対する失望から1950年代に起こった左翼の政治運動で、マルクス主義の新解釈(ネオ・マルキシズム)やトロッキー主義など種々の傾向を含む」(広辞苑)とされる。この運動はフランス、ドイツ、アメリカ、日本など各国でも起きた。
在日同胞になじみのある日本の新左翼を例にとれば、組織内部での暴力をともなう抗争を意味する《内ゲバ》という言葉が象徴するように、他のセクトとはもちろん、セクト内部でも理念をめぐる対立は流血事態をいとわないほど激烈だった。
闘争目標が現実から浮き上がっただけではない。革命対象である日本社会の視線は眼中になく、運動主体の整理・純化に血眼になった。当然の帰結として、社会から決定的に孤立し、学生たちも離反した。結局は、展望のない過激な武装闘争へと進み、自滅していった。
《内ゲバ》なく
この点、韓国の新世代左翼は日本の新左翼とはまったく異なる道を歩んできた。強力な勢力になって30余年が経過したにもかかわらず、《内ゲバ》と呼べるほどの事件はなかった。
《NL派》系と《PD派》系が再統合して昨年12月に発足した統合進歩党は、第19代国会議員選挙(4月11日)の比例代表候補の選出過程における不正をめぐって激しい内紛状態にあり、暴力事態も発生した。だが、角材や鉄パイプなどを使っての流血までには至っていない。
似て非なる理念に対して左翼系は、融通無碍な保守系とは異なり、妥協を許さない心性がある。朝鮮朝時代の最大の悪弊に、統治理念の些細な違いをめぐっての苛烈な党派闘争があった。そのDNAは今も社会に息づいているとされるだけに、韓国の新世代左翼に《内ゲバ》が顕在化しなかったのは興味深い。
《NL派》と《PD派》との角逐はいうまでもなく、両派の内部でも理論闘争が続いた。正統マルクス・レーニン主義に近い《PD派》より、北韓との関係が焦点になった《NL派》がより熾烈だった。
北が親分で南が子分といった関係ではなく両者は対等であるべきだとする勢力と、北が指導勢力であり南はそれに従うべきだとする勢力がひとつ屋根の下に同居していたからだ。
《NL派》内のこの共存状態はやがて、「対等勢力」と「従属勢力」との対立へと変わる。89年以降から、北韓が体系的な指導工作を始めた影響も大きく、「従属勢力」が拡大していった(この部分、次回詳述)。
80年代中盤から、在野勢力や運動圏学生の相当数が主体思想に追従している事実は、公然たる秘密だった。しかし、《PD派》メンバーが自分を社会主義者だと公言することはあっても、現役の《主思派》活動家が主体思想を信奉している事実を自ら認めることは決してなかった。
「決別」標榜も
《主思派》という呼び名そのものは、カンチョル・グループが登場した86年頃から、運動圏学生たちの間で内々に使われていたという。80年代も後半に入ると、一部大学の総学生会会長選挙で「主体思想派と断固決別し、民衆民主を!」のスローガンが叫ばれている。
しかしこれは、《NL派》は言うにおよばず、《PD派》の一部からの非難にもさらされた。世論に運動圏への疑念を抱かせ、なおかつ体制側の弾圧を招くとされただけではない。北韓と《主思派》に対する公開的な批判は、同志側の弱点と秘密を暴露する、いわば背信行為と見なされたためという。
左派内部のこうした事情は、《主思派》の勢力拡大を抑止できない要因となったほか、今なおかなりの影響力を維持する環境をつくった。
(文中・敬称略)
(2012.7.4 民団新聞)