新世代左翼 80年代初から台頭
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カンチョル・グループ増殖
学生街に主体思想広める
1980年代中盤の韓国で、北韓の主体思想を信奉する《主思派》がなぜ生まれたのか。しかも、小規模にとどまることなく、国の根幹を揺るがすほどの勢力に成長した。どのような要因が働いたのか。
不思議なことに、《主思派》の元祖とされる人物ははっきりと特定されている。本人もそれを否定しない。当時、ソウル大法科大の学生だった金永煥(現在49)がその人だ。
彼は1985年から金日成放送大学(1962年11月開設)の通信制講座や《救国の声》放送(注=1)を聴取し、大学図書館の主体思想批判書籍などを読みあさって主体思想を研究したという。
「鋼鉄(カンチョル)」のペンネームで、主体思想を紹介する論文を次々に発表し、またたく間に信奉者を拡大した。それをまとめた単行本『鋼鉄書信』(89年発行)は、学生運動家たちの必読書にまでなった。彼を中心とする勢力はカンチョル・グループと呼ばれ、《主思派》の中核となっていく。
転換した元祖
金永煥についてはあらかじめ、近況を紹介しておくべきであろう。思想的な立場を劇的に転換させているからだ。
北韓への不信をすでに強めていた彼は99年、《民革党(民族民主革命党)》事件で身柄を拘束された際、「北韓住民を地獄に追い込んだ主体思想を美化した過ちを、北韓同胞の前に膝をついて謝罪し、今後は北韓民主化のために全力を尽くしたい」と表明、事実、果敢なまでに運動に取り組んできた。
年に3・4回ほど中国に入り、北韓との国境付近を訪れていた彼は今年3月29日、「北韓民主化ネットワーク」の研究員の立場で活動中、大連で中国の公安当局に逮捕された。中国はこれまで、脱北を支援する韓国人に対して「密出国幇助罪」で処理してきたが、彼にははるかに厳しい「国家安全危害罪」を適用する方向だと見られている。26日現在まで、拘禁されたままだ。
金永煥の《主思派》および北韓民主化運動における起伏に富んだ活動歴については、いずれ詳しく触れることにして、話を戻そう。
カンチョル・グループは、北韓の工作による産物ではなかった。それまでの旧左派勢力の影響も受けていないという。そうしたことから《自生主思派》と呼ばれてきた。《主思派》がなぜ自生したのか。80年代の政情を抜きにしては語れない。
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《新軍部》に強い反発
民主化へ「6月抗争」…保守・進歩の垣根を超えて
大統領直選へ
民主化運動が高揚していた1979年10月26日、約18年にわたって執権してきた朴正〓大統領が時の中央情報部長・金載圭によって射殺された(10・26事件)。国務総理・崔圭夏が権限代行を経て12月6日、統一主体国民会議代議員会によって第10代大統領に選出された。
その前後は、共和党総裁・金鍾泌、新民党総裁・金泳三、在野指導者・金大中の3氏が直選制改憲を視野に、次期大統領をめざして活発な活動を展開、「3金時代」を現出した。この時期はまた、「ソウルの春」とも呼ばれ、激しい政治的流動期にあった。
同年12月12日、朴大統領暗殺事件の合同捜査本部長に就いていた陸軍保安司令官・全斗煥少将、第9師団長の盧泰愚少将らが中心となった粛軍クーデター(軍内部の反乱。12・12事態)が起きる。これに抗議し、民主化を要求する大規模なデモが頻発していく。
国軍を掌握し《新軍部》と呼ばれた彼らは、翌80年5月17日、非常戒厳令拡大措置を布告し、金大中、金鍾泌を拘束、金泳三を自宅軟禁に処した。全国規模で反発が広がった翌18日、光州市で市民・学生が一斉に蜂起(5・18光州事態)し、新軍部による国軍投入後も激しく抵抗した。
光州事態の衝撃からさほどの時をおかず、新軍部は8月16日、崔大統領を辞任に追い込むと、同27日には全斗煥が統一主体国民会議代議員会によって第11代大統領に就任。10月27日には国民投票で、大統領の選出は選挙人団による間接選挙とし、任期は7年・再選禁止とする改定憲法を制定した。
この第5共和国憲法に基づいて、全斗煥は81年3月3日、第12代大統領に就任する。粛軍から政権掌握までの過程は一般に、《新軍部クーデター》と呼ばれている。
ちなみに、全大統領の就任当時、成長率はマイナス4・8%、物価上昇率は42・3%。貿易赤字は44億㌦を抱えていた。全大統領は経済開発にドライブをかけ、87年の成長率は12・8%、物価上昇率0・5%、貿易黒字114億㌦を計上した。
所得3千ドルに
「漢江の奇跡」を再現した韓国経済はこの87年、1人当たり国民所得が3300㌦を記録、民主化への要求が高まるとされる3000㌦を上回っていた(81年時は2660㌦)。このことも念頭に置きたい。
大統領直選制改憲の要求を中心とする民主化運動は、雌伏期間を置いただけで、衰えることはなかった。88ソウル五輪が近づくにつれ、間欠的な展開から持続的な一大国民運動となる。
全大統領は87年4月13日、平和的な政権委譲とソウル五輪という国家的大事業を成功裏に終えるためには、国力を浪費・消耗させるだけの改憲論議を一時中断する、と宣言した(4・13護憲措置)。これがまったくの逆効果となり、決定的な「6月抗争」へ発展していく。
民正党代表委員・盧泰愚は6月29日、「大統領直選制への改憲と88年の平和的政権委譲」「金大中赦免・復権と時局関連事犯の釈放」などを骨子とする時局収拾のための特別宣言を発表。全大統領が7月1日に、宣言を「すべて受け入れる」ことを声明、「6・29宣言」は政府・与党の公式な立場となった。
10月27日の国民投票で、大統領の直選制と5年単任制、大統領の非常措置権と国会解散権の廃止などを盛り込んだ改憲案が確定した。これは「直選制改憲」と称されている。同年12月16日の第13代大統領選挙で盧泰愚が当選。投票率は91・8%にのぼった。
ソウル五輪を成功させる‐そのためのはずだった「4・13護憲措置」が短い期間で、「6・29宣言」に置き換わったことになる。取り繕いの便法が本格的な民主化措置を早めたかっこうだ。
五輪成功巡り
こう見ると、ソウル五輪成功への国家的事業は、北方外交を展開して東西冷戦構造を、経済開発モデルとして豊かな北半球と貧しい南半球の厳しい角逐を、それぞれ解消・融和に導いただけではない。韓国自らの民主化までもたらしたことになる。
また、この民主化があったからこそ東・西、南・北の十字路に位置する負荷を奇貨に変える国家理念に、説得力のある中身を与え、ソウル五輪の成功とその後の「世界の韓国」としての躍進を可能にしたのは疑いない。
しかし、16年ぶりとなった直接選挙の勝者は金泳三、金大中、金鍾泌ら乱立する有力候補を押さえた盧泰愚であった。得票率が36・6%(金泳三28%、金大中27%、金鍾泌8・1%)にとどまり、新軍部クーデターの主役の一人であったことが影を落とす一方で、勝利できなかった民主化運動の陣営内部も四分五裂の様相を見せ始めていた。
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浸透する「ゆがんだ歴史観」
北韓に誤った憧れ…急速に勢力伸ばす《NL派》
80年代に大きく進展した民主化は、現在の韓国で言うところの、保守・右派、進歩・左派の垣根を越えた国民的な運動によって成し遂げられた。「直選制改憲」のための国民投票が投票率78・2%、賛成率93・1%の圧倒的な高さを示したことでもそれは分かる。
しかしこの時期、進歩・左派のなかでは異変が加速度をつけて進行していた。学生を中心に新世代左翼が大挙登場しており、そのなかでも《NL派》が急速に勢力を拡大、さらにそのなかでも《主思派》が核心を握っていく勢いにあった。
《NL派》とは、「民族・解放」を意味する「National Liberation」から名付けられた。これとよく対置されるのが《PD派》だ。これは「民衆・民主」を表す「People Democracy」からきている。《NL派》は「自主派」、《PD派》は「平等派」とも呼ばれてきた。
運動に限界感
新世代左翼の台頭には、大きく二つの理由があると言われる。一つは、従来の民主化運動には限界がある、との認識が広まったこと。もう一つは、「直選制改憲」を勝ち取ったことで自信をつけ、タブーを破ってみようとの機運が高まったことだ。
4月11日の第19代国会議員選挙で、釜山海雲台・機張地区から初当選したセヌリ党国会議員・河泰慶(45)は、386世代(注=2)後期の中心的な活動家のひとりだった。その後、金永煥と同じように政治的な立場を転換させ、「開かれた北韓放送」代表として人権問題を中心に北韓の民主化運動に精力的に取り組んできた。
彼は08年8月、民団主催の講演会で、80年代の学生たちの心情についてこう語ったことがある。
「朴正熙政権が倒れても民主政権が樹立されず、クーデターが起き、光州で多くが死んだ。李承晩時代から民主化運動を続けてきたにもかかわらず、軍事政権が続いてきたのは、自由主義的な運動路線自体に根本的な問題があるのではないか、自由主義ではなく社会主義的な方式を考えるべきではないか。こうした傾向が生まれ始めた」
その下地には、70年代に文学界を中心とする《民衆文化運動》が左派的情緒を広げたことがある。これは別な機会に触れることにして、先を急ごう。
「自由主義的な運動路線」に疑いを持ち始めた知識人・学生たちがまず研究・学習したのは、マルクス、レーニン、毛沢東であり、マルクス主義の影響が濃い従属理論(注=3)などだった。
80年代に入ってもしばらくは、《従北》は言うにおよばず《親北》の傾向さえ目立つ存在ではなかった。マルクス、レーニンを語り、毛沢東を論じることはできても、金日成についてはまだ、口にすることさえ憚られる対象だったからだ。
しかし、時間の問題だった。この前後の事情について、もう一度、河泰慶の言葉を借りよう。
「社会主義を受け入れた我々が、同じ社会主義の北韓を受け入れられない理由がない、との空気が生まれた。全斗煥政権が『6・29宣言』で譲歩し、それによる高揚感もまたタブーの打破を後押しした。北韓に対する情報統制が逆に興味を煽ってもいた。北韓研究が盛んになるにつれ、金日成はそれでも抗日パルチザンにかかわったが、李承晩は親日派をきちんと処罰しなかった。権力の正統性という点で、むしろ北韓のほうが優っているのではないか。韓国では左派、右派を問わず、民族主義や反日意識が強い。学生たちの間ではいつしか、金日成が優れた人物になっていた」
深刻な病巣も
史実に基づかないゆがんだ歴史観は、北韓に誤った憧れを抱かせる一方で、大韓民国の建国そのものと、経済開発・産業化を含む建国以来の歴史を否定しようとする《歴史虚無主義》をはびこらせていく。これは現在でもなお、韓国社会の深刻な病巣になっている。
こうした傾向はまた、新世代左翼の色分けをNL派、PD派へと明確にさせ、NL派の勢力拡大を後押しすることになった。
86年3月、ソウル大に100余人が結集、NL路線の《救国学生連盟》が発足する。韓国を米国の植民地と規定したうえで、米国を逐出する民族解放運動こそ第一義とし、民主化と南北統一は反米運動の条件をつくるための大衆的な手段と位置づけられた。
87年に入ると全国でNL系列の総学生会が誕生、同年8月にはこれを基盤に《全大協(全国大学生代表者協議会)》が旗揚げし、《主思派》が主流となる。
(文中敬称略)
注①=北韓の対南宣伝放送。北韓が韓国内に組織した地下党・統一革命党の《統革党の声》放送の後身。
注②=「90年代に30代となり、80年代に学生運動を行った60年代生まれ」のこと。
注③=世界的な資本蓄積の過程で、資本主義の中心部と周辺部との間に従属関係がつくられ、欧米など先進諸国に経済発展が、第3世界に低開発が蓄積されていく構造に関する理論。ドイツ出身の経済学者アンドレ・グンダー・フランクなどが提唱。
(2012.6.27 民団新聞)