北韓、《主思派》指導を体系化
金永煥の逮捕
新世代左翼が《PD派》と《NL派》に枝分かれし、《NL派》内部も北韓に対する基本姿勢をめぐって「対等勢力」と「従属勢力」に色分けされた。北韓の指導に従うべきだとするこの「従属勢力」が《主思派》として固まり、《NL派》を牛耳って学生運動圏をほぼ席巻し、さらには学生層以外の反体制勢力へと拡散していった。
《主思派》が急速に力をつけた背後には、北韓の体系的な指導がある。この実態は、北韓に直接包摂された《主思派》指導者たち本人の証言や捜査当局の資料、何らかの経緯で韓国に定着した元北韓工作員の証言によって裏づけられてきた。
1999年8月、《民革党(民族民主革命党)》の総責であった《主思派》の始祖・金永煥が逮捕された。この事件は、韓国内で自生した勢力が北韓に包摂され、朝鮮労働党から直接指令を受ける「革命前衛組織」となった初めての事例として、また、地下党では1946年12月結成の《南労党(南朝鮮労働党)》以来最大の規模として、大きな衝撃をもって受けとめられた。
これまで何度か紹介したように、金永煥は主体思想を美化した過ちを悔い、現在では北韓民主化の先鋒を担う中心人物のひとりである。『鋼鉄書信』発行から《民革党》の結成・主導へ、そして北韓民主化運動に投身するに至った彼の遍歴は、新世代左翼、なかでも《主思派》の流れを知るうえで興味深い。
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東欧圏崩壊に学ばず
危機感でむしろ結束…朝鮮労働党に続々現地入党
金永煥が北韓の直派工作員と初めて接触したのは89年7月。その工作員は事件摘発時、北韓の対外連絡部5課長になっていたユン・テンニムである。ユンは当時、「ハンギョレ社会研究所」(92年4月、韓国社会科学研究所に吸収)の研究員・金哲壽を名乗った。
金永煥は、北韓と直接つながることによる副作用を懸念しながらも、ユンの示した手順にしたがって冠岳山(ソウル市内)で朝鮮労働党に現地入党した。暗号名「冠岳山1号」を授けられ、「運動圏の核心人物を抱き込み、全国的な地下組織を結成せよ」と指示される。
その頃すでに、《主思派》の核心分子が「金日成主義青年革命組織」であることを標榜し、89年3月に結成した秘密組織《反帝青年同盟》が活動していた。金永煥や彼とソウル大法科大の同期である河永沃が主導したもので、同年4月15日には金日成の77歳生日を祝い、全国の大学街で「民族の太陽」と称えるビラを散布している。
思い入れ強く
北韓では、金日成が1926年10月、14歳で「打倒帝国主義同盟」を結成、それを翌年8月にはより大衆的な組織「反帝青年同盟」に改編したとする。同名の組織を韓国で発足させたわけで、《主思派》メンバーの金日成に対する思い入れの強さが分かろう。
河永沃は90年4月、金永煥が北韓からの指示だとして《反帝青年同盟》を譲り渡すように要求するとそれに応じ、翌月には金の差配により道峰山(ソウル市内)で労働党への現地入党式を終え、「冠岳山2号」の暗号名を与えられた。
金永煥は、朝鮮労働党から「現地入党権」を委託されたことを全面に押し出し、《反帝青年同盟》のメンバーを次々に入党させ、組織を掌握していく。
それにしても、である。この時期には、東欧社会主義諸国が相次いで自由化を勝ち取り、一部の独裁者が悲惨な末路を迎えていた。東欧の優等生と言われた東ドイツが瓦解し、西ドイツがこれを吸収統一(90年10月)、宗主国のソ連までが崩壊(91年12月)した。
現実社会主義の没落という世界史的な大激変は、韓国の運動圏に何ら変化をもたらさなかったのだろうか。離脱者が増えたのは事実とされるものの、決定的な影響はなかった見るべきだろう。かえって、危機意識を募らせ、中心部分を固めさせたと言えるかも知れない。
「最後の砦」と
この辺の事情について、《南韓朝鮮労働党》、別名《朝鮮労働党中部地区党》事件(92年10月発表。次回詳述)で摘発された総責の黄仁五に語ってもらおう。黄は80年4月、80年代労働者闘争の発火点となった「舎北事態(東原炭鉱舎北鉱業所鉱山労働者ストライキ)」を主導した。筋金入りの活動家である。
「私はNL・民族解放派とPD・民衆民主派のなかでは、情緒的に親北のNLにより好意的な態度をもっていた。90年当時でも変わらなかった。むしろ、東欧社会主義諸国の急速な崩壊を見ながら、私だけではなくほとんどの運動圏人士が、NLもPDも政治的態度の差を離れて、現実社会主義の最後の砦として、北韓が持ちこたえて欲しい、そう祈るような心境だった」(97年。獄中手記『朝鮮労働党中部地区党』より)。
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精鋭分子集めた《民革党》
成長株の学生狙う…初の「サイバー部隊」
《反帝青年同盟》で指導的立場を固めた金永煥は91年2月、北韓から「通信連絡を担当する対象者を包摂し、ともに入北せよ」との指令を受け、ソウル大の1期後輩で同盟の中核である裕植をともない、同年5月16日、潜水艇で江華島から北韓入りする。
5月30日に工作船で北韓南浦を出港するまでの14日間、金永煥は労働党に正式入党し、「牡丹峰招待所」で祖国平和統一委員会の副委員長・安景虎、社会文化部長・李昌善らから教養・指導を受けたほか、妙香山の別荘で金日成とも2回面談した。
熱誠誓ったが
金日成は「南朝鮮が米国の植民地である事実を集中暴露し、人民を覚醒させねばならない」「南朝鮮人民1000人を主体思想で武装させれば、南朝鮮革命は成功したのも同然だ」と語り、金永煥は「首領様の意を受け、南韓で組織活動に熱誠を傾ける」と誓った。
《民革党》は92年3月16日、金永煥、河永沃、朴某(非公開)の3人を中央委員に、《反帝青年同盟》を基盤として結成される。党綱領などで「金日成主体思想を指導理念とする地下革命党」であることを謳い、南韓に革命情勢が醸成され決定的時期が到来すれば、北韓の支援を受け「民族解放・民衆民主主義革命」を完遂すると明示した。
中央委員会のもとに京畿南部、嶺南(慶尚南北道)、全羅北道の地域委員会と部門別事業指導部をおき、各地域委員会には全国の主要都市別委員会を統括させた。各級委員会は同門会や同窓会、事業所や営業所などに偽装して運営し、党員はオルグ対象の段階から徹底した身元調査と思想点検を行い、変節の恐れがない「主体思想の精鋭分子」だけを選抜した。
《民革党》はそれまでの地下党とはっきり異なるいくつかの特徴をもっている。
第一に、(前述したように)韓国に自生した《主思派》組織が北韓に包摂され、朝鮮労働党の指導を直接受ける「革命前衛組織」に変質した最初の事例だった。
第二に、北韓のオルグ方針の転換を裏付けた。すぐに利用できる既成世代を包摂してきた過去とは異なり、潜在的な可能性の大きいエリート学生層に焦点を当て、長期的な観点で教育・労働・言論・法曹・政治の各分野で指導層に育成することを重点とした。
第三に、北韓の地下党組織原則にしたがって徹底した点組織で運営され、総責や組織責でなければ全容を知らず、上命下服を鉄則とした。組織防衛は万全で、情報当局は別件で手掛かりを発見するまで《民革党》の存在をつかめていない。
第四は、最先端のインターネット通信網を対北連絡手段などに活用する、いわば「サイバー工作員」であったことだ。河永沃は報告を他者が解読できないよう暗号化し、圧縮ファイルで送ったほか、逆追跡を避けるためソウル市内のインターネットカフェを転々とする細心さを見せた。
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転機の平壌14日間
膨んだ北への不信…大量餓死・脱北が追い討ち
金永煥の14日間にわたる平壌滞在は、二つの大きな意味をもっていた。一つは言うまでもなく、《民革党》結成に拍車をかけたことだ。もう一つは、この《民革党》を解体させ、《主思派》勢力に激震を走らせたことである。
彼は88ソウル五輪以後、北韓経済が韓国と競争するレベルではないことを理解した。だが、経済が没落したとはいえ「環境」や「人間愛」の面で、北は無限競争にさらされている南より優れているはず、との幻想からは自由でなかった。
韓国革命を経て祖国統一を実現し、没落するマルクス・レーニン主義に代わって未来パラダイムの源泉となるのは、主体思想以外にない、との確信を強めていった。自らの動揺を振り払うためでもあったに違いない。
そんな彼も、平壌で北の実態の片鱗に触れ、工作部門の幹部や学者らと討論することで、北の社会は新たな哲学的活路を開拓するにはもっとも困難な地であることを知る。
学者たちには関心がなく、北に主体思想を発展させる能力がないのであれば、これを狙うのは自分をおいてほかにない、とまで思い込む。主体思想にこだわりつつも、北韓への幻想から自己を解き放ったのだ。
退潮の顕在化
彼は95年、運動圏が愛読する雑誌『マル(言葉)』(4月号)との「反米、北韓、そして1990年代に対する私の考え」と題するインタビュ‐で、「厳密に見れば、我が国は米国の植民地ではない」「北韓同胞には真の愛情をもたねばならないが、北韓追従主義に陥ってはならない」と主張するに至る。
90年代中盤は、「苦難の行軍」という言葉が示すように、北韓で大量の餓死者が発生した時期であり、その実情は急増した脱北者らの証言によって、運動圏にも生々しく伝わり始めていた。
東欧社会主義諸国の崩壊にもかかわらず、北韓が生き残ったことで、これを主体社会主義に対する自負心を高揚させる契機としたさしもの《主思派》にも、退潮の傾向がはっきりと現れた。
その象徴でもある金永煥の言動に、北韓も黙ってはいなかった。「マル誌の記事を読んだ。記事に不正あり。総責の真意を報告されん」(95年6月4日)、「一度抱いた気持ちと、革命一筋の忠誠を尽くすことを願う」(98年6月4日)など、<変節>を憂慮し、任務全うを促している。
ちなみに、金永煥は91年12月から98年6月にかけ、北韓から計72本の通達・指令を受信した。これはすべて、彼から押収した「私は君にバラの花園を約束しなかった」(91年7月。真の光出版社)という名の乱数解読冊子を手がかりに解読された。
北韓の懸念表明にもかかわらず金永煥は、機関紙『光』への寄稿を通じて、北韓に対する問題提起や批判を段階的に展開し、北韓の首領論は詐欺劇だと断じるだけでなく、金正日政権打倒に左右が団結しなければならないと訴えていく。
《民革党》内部の路線闘争が激化したのは言うまでもない。97年2月12日、主体思想の事実上の創始者である朝鮮労働党秘書・黄長が韓国に亡命すると、いっそうの拍車がかかった。この年の9月、金永煥は中央委員会で河永沃らの反対を押し切り、《民革党》の解体を決議する。
指導部の分裂
彼は当時の心情を『月刊朝鮮』(99年6月号)に、「私の致命的な過ちは、親北的な雰囲気が運動圏に広く拡散するのに決定的な役割を果たしたことだ」と述べたうえで、こう語っている。
「黄長先生の亡命で、主体思想は北韓体制と完全に分離した。封建王朝である金正日政権は、主体思想の敵だ。2000万北住民が困窮する現実を見て、それより重要なものがあると考える人は、血と涙が涸れた人であり、何が先で何が後なのか、仕分けできない人たちだ」
《反帝青年同盟》の結成を主導し、その後身である《民革党》でも中心的な役割を果たしてきた河永沃は、金永煥一派を「変節漢」と糾弾する一方、京畿南部、嶺南の地域委員会や大学生組織などを統括し、《民革党》の再建を図ろうと血眼になった。
金永煥と河永沃を筆頭とする角逐は結局、当局が《民革党》を摘発するきっかけを提供することになる。
(文中・敬称略)
(2012.7.11 民団新聞)