掲載日 : [2020-05-12] 照会数 : 12159
朝鮮通信使 善隣友好の径路を歩く<41>唐子踊(牛窓)
[ 「唐子踊」(疫神社の社殿脇)「唐子踊」(疫神社の社殿脇) ] [ 「唐子踊」(疫神社の社殿脇) ] [ 唐子を1回踊る(薬師堂) ]
「唐人踊」と「唐子踊」が合体
牛窓の秋祭りの時期、紺浦(こんのうら)の疫神社(正式名称・素盞嗚神社)で催される「唐子踊」。唐子になるには、代々紺浦に住み、両親の健在な家の子供で6、7歳になる男児から2名が選ばれた。だが今日の少子化では、このような条件では踊り子を確保することは難しくなり、紺浦の居住者であれば良いことになった。
連載の11話において、牛窓の「唐子踊」は、朝鮮通信使のときの置き土産と記したことがある。『唐子踊』(唐子踊保存会、2007年)の冊子には「唐子踊の由来についての諸説」として神功皇后説、朝鮮通信使起源説、中国起源説、地元創作説など、いろいろな説が記されていた。
紺浦の氏神さまを祀る疫神社は、村を望む小高い丘に鎮座していた。奉納される稚児舞いは、祭礼の午後から執りおこなわれるのだが、その前に踊の練習風景が見られることを、地元の人から教えられた。行ってみると、社殿横にゴザが敷かれているだけで殺風景な光景だった。
階段を上がってくるのはアマチュアカメラマンだけで、やっと午後1時ごろ肩車に乗った二人の男児が現れた。そして囃子方の小太鼓・横笛も一緒に社殿の前で参詣する。カメラのシャッター音が鳴り響く令和の時代の中で、江戸時代の面影をイメージさせる写真を撮影するのは難しい。
祭祀を五年ほど務めた唐子は、交替年になる。運良く今年がその年で、紋付羽織に袴を着た先踊り(前任者)。鮮やかな色彩の衣装と帽子を身につけた唐子(後継者)。顔に白粉を塗られ額の中央に朱の十文字が印され、目がしらにも朱をさすと神が唐子に宿るという。そのような唐子の足が地に直に着かないようとに肩車で移動して、ゴザが敷かれる。
踊り子の口上「コンネン ハジメテ ニホンへ ワタリ ……」囃子方のかけ声「ヒュー ホイ」
そして、歌と踊りがはじまる。「ハーサーチャーアーアー アーワンエー ハーエーエーエー ……」
意味不明なことばやお囃子が約7分ほど続いた。
これで唐子踊は終わり解散するものだと思っていたが、唐子たちは再び肩車に乗り、のどかな田舎道を通って天神社に向かう。
そのあと薬師堂、神功皇后腰掛岩へと移動してゴザの上での「唐子踊」が披露される。
朝鮮通信使の寄港により、朝鮮を身近に感じることができた牛窓の紺浦の人々が、江戸時代に流行した唐人踊と唐子踊とを結びつけて現在の「唐子踊」となった。
つまり唐子踊保存会の研究として「朝鮮通信使の影響を受けた地元創作説」だと締めていた。
藤本巧(写真作家)
(2020.05.13 民団新聞)